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松原諏訪神社の歴史

松原諏方神社

諏方神社の歴史

松原諏方神社上社・下社共に「建御名方命(たけみなかたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)、下照比売命(しもてるひめのみこと)」を祀り、明治初頭までは、仏の普賢菩薩(ふげんぼさつ)も祀っていましたが神仏分離令により松原より仏教はなくなりました。
松原諏方神社は、上社・下社に別れ、上社は猪名湖東南岸に、下社は北東岸に相対し深い樹林の中に鎮座しています。その面積は一万五千坪で東京ドームとほぼ同じ位です。なお境内には弁財天神社(市杵・島姫命)八幡神社(譽田別命息長足姫命)子安神社(高皇産霊神・神皇・産霊神)稲荷神社(豊受姫命)梅の宮(山宮)熊野権現宮・白山宮の末社が鎮座する。なお松原湖の周辺から御射山(松原湖高原キャンプ場奥)にかけて、石宮が六~七十個の数にのぼる。伝承に八八社あったといわれているがほぼこれに近いでしょう。氏子は年に七五度の祭典をおこなって、国家の安泰を祈念するために、徳川三代将軍家光から各代替りごとに三十石の御朱印状を下げられていた。そのために無税地帯であり、伝馬・助郷の人足にも出ることがない部落であった。  

後、松原諏方神社は武田信玄の崇敬が厚く、何度も信玄直筆の祈願文が届き祈願し出陣した。境内には、国の重要文化財「野ざらしの鐘」(県下最古)があり、武田信昌(信玄の曽祖父)が佐久地方に乱入した時に落合慈壽寺からの戦利品で、松原諏方神社に奉納した物です。

松原諏方神社の創立

天智天皇(てんちてんのう)600年代の御字の創立と云われて居るが御宝霊(おほうれい)には天慶二年八局十五日(939年8月15日)、文和元年六月十七日(1352年6月17日) (いずれも北朝の年号)延文二年七月廿三日(1357年7月23日)とあり上下両社共、朱雀天皇(すざくてんのう)の天慶の元号を最古として夫から降って幾つかの年号を銘記してある。以前延喜式神名帳の撰上になったのは延長五年(927年)である。
又、建久五年十月十五日(1194年)源頼朝の時代となり、のちに説明する龍伝説の畠山重忠・梶原景時の奉行たらしめ華表を建立せられたとも諏方神社再建の趣旨書にある。
観応三年(1340年)松原神社文書に『伊那古松原大明神縁起』なるものがあり、『諏方大明のご神体が伊那古神社に飛来した奇瑞があった』とその時の神主(和泉太夫)の筆で、現在の佐久市に有った前山城の城主だった伴野長房が時の将軍足利尊氏に報告され、尊氏は文和元年(1352年12月)に『これは神の威光(いこう)なので崇めるように』といった御判教書が下されている。
このとき古有の祭神は諏訪神に移行したものと思われる。

創立された年代年は明確ではないが奈良時代から平安、鎌倉時代(710~1333年)と思われる。

上社社殿

諏方神社の歴史

松原諏方神社上社社殿は明治二十一年に焼失し、松原神社上社本殿の再建について、地方の大工が協議して、大和奈良県の宮大工小林源三郎勝長を棟梁として迎えることになった。
彼は神光寺三重塔建立の大工棟梁後見役を勤めた名工小林源蔵昌長の三男で、天保四年(1833年)生まれ、京阪地方の名匠に師事し、大和北葛城郡の名匠福田氏の養子となり、大和の神社仏閣の建築設計に天才的な技を揮い、多くの弟子を指導し、その顕彰碑が現在奈良県中西部にある現在の香芝市の旧志都美村にある。

本殿の規模は、一間社、流れ造り、杮葺(こけらぶき)(現在は鉄板を覆う)間口4.54m、奥行3.63m、佐久地方でも最大規模のものである。この巨大な本殿を支える基礎は、下部に割石を積み、その上に長尺の厚い切石を置き、さらに亀腹の大石を琚えて総高137cmの基壇を築き、その上に方20cmの角材を置いて土台とする。
太い土台材、円柱、大きな舟肘木の柱上に桁を渡して垂木を受けて屋根を支える。二重疎垂木の化粧屋根裏、妻には大きな束が中央に直立し、これをうけて二本の斜材(扠首棹(きすざお)が、三角形を造る。複雑な斗拱や彫刻、彩色等の装飾は一切使われていない。白木作りで男性的、直線的な力強さのなかに、しかも簡素で日本的な美しさをもつ和様の建築といえよう。信州の誇りとする名工小林源三郎勝長が、郷土佐久に残した唯一の傑作です。
拝殿は永い間できなかったが、松原発電所の建設に当たり、長野電灯(現在の中部電力)により寄進された「松原神社費」を、拝殿新築費に当て、昭和六年五月、小海駅前の宮大工冨田清成に請渡して起工した。建築用材は松原湖畔の樹齢数百年のケヤキ・クリ等の大木を、官より払い下げをうけて用い、屋根は本殿を含めてすべて銅板葺とした。

下社社殿

諏方神社の歴史

松原諏方神社下社社殿は、承応二年(1653年)に焼失し、安永3年(1774年)に建立して現在にいたっている。
棟札(表面)奉造立大伴野神諏方大明神宝前  神主橘氏
(裏面)下諏方大明神 神前         鷹野掃部進満
大工両人 小須田要左エ門  新津源蔵   下組大小氏子
 十日町 間篠磯八 三分村 小須田弥藤次
 十日町 間篠幸治 小工 高野町  新蔵
(木槌に)平林村新津源蔵 両登當竜 小須田要右衛門宜網
 天長地久 安永三 甲 午 年十月八日  とある。
平林村の棟簗新津源蔵は、正徳4年(1714年)宿岩村諏訪社、元文元年(1740年)大久保村(旧八千穂村)諏訪社、寛政二年(1790)高野町諏訪社葺替えをしている。その間76年間、親子二代とも考えられる。

基礎は切石の大きな長方形の石材を用い、大きな角材をすえて土台とする。床下は高く、太い角材を用い、本殿床上は大きな円柱を用いて高く造る。一間社流れ造り杮葺(こけらぶき)、二重繁垂木、三手先・板扉、間口2.45m、奥行き2.3mと規模は大きい。 正面板扉の左右には、上から、しめ縄つきの鯛一瓶子(神酒徳利)を、一連の縦の彫刻としている。左右の壁には、大きく諏訪神の神紋である梶の葉の彫刻をいっぱいにあげている。裏面だけは板壁とし、他は簗から上は全面彫刻で埋め尽くしている。下段は松、鶴・亀・二段目は波、三段目は雲で、支輪に達する。向拝正面欄間は竜の彫刻、手挾は若葉、木鼻は正面獅子、左右象鼻、妻飾、脇障子も彫刻で埋められ、胡粉の白色下地に、赤、緑、黒と各種色彩がふんだんに用いられ、時代色を示している。

梵鐘(のざらしの鐘) 国重要文化財 場所/上社境内

諏方神社の歴史

この梵鐘は、弘安二年に佐久郡大井庄地頭、大井太郎源光長が大旦那となって鋳造して、落合(佐久市)の新善光寺に寄進した。この鐘の施入に先だち、寛元二年(1244年)には一光三尊の善光寺仏が鋳造され、建長元年(1249年)に不断念仏が始められた、等のことを刻銘によって知ることができる。

その後武田信玄の曽祖父・武田信昌が佐久地方に乱入したときに、この梵鐘が移っていた落合慈壽寺の和尚が休息の願いを断った為、寺を焼き払いこの梵鐘を戦利品として持ち帰える途中、押しても引いても動かなくなってしまった。しかし信昌が「松原神社へ運ぼうか・・・」とつぶやいたとたん動きだし松原湖まで引き上げ奉納したと言われています。この武田信昌のあらすじは、信昌は以前から佐久市前山の伴野氏と仲が良く無く争いは無かったが、大井氏には文明四年〔1472年〕に甲斐八代郡に攻入られ、花鳥山(笛吹市)で合戦となっている。その報復に文明九年〔1477〕信昌の佐久侵攻に際し、佐久郡南部の相木谷を本拠とする大井氏重臣の相木氏が軍勢を集め、現南牧村の平沢やその北隣り現野辺山の矢出原で撃退したようだ。野辺山の矢出原では弓やの矢じりが大量に出土しています。その後、延徳元年 〔1489〕6月5日佐久地方の岩尾城攻め入り(佐 久市鳴瀬岩尾)岩尾城主大井貞宗は、信昌に岩尾城を焼討されたが、小諸大井氏・長尾らの支援を得て武田氏を追い退けて、その後、武田軍は同8日、芦田城を責め城主米持庄司討死に、それより望月両城へ。村上顕国三千余騎を率い馳せ向かう武田勢敗北した様です。

松原は文政12年(1829年)に旧松原村民家31軒が燃えてしまう大火事から始まって、明治33年(1900年)の松原分校の火事まで数度の火災によって『梵鐘の祟り』と言い、野ざらしで長い間置いたので「野ざらしの鐘」と通称されるようになった。

鋳造年代 鎌倉時代 弘安二年(1279年) 鋳銅製
造形 総高 126.3cm  口径 75.7cm 竜頭高 72.2cm
身長 93.3cm 撞座中心高 22.7cm 竜頭は大型で強猛の相、上帯に蓮華唐草、下帯に唐草文様を鋳出、乳の間に4段4列に16個の乳を配す。池の間には飛天の高肉の陽鋳が各区に1躯ずつある。そのうち2区の飛天の左右には、後記の銘文がある。駒の爪はやや肥厚し、下面に刻銘がある。両撞座を結ぶ線が竜頭の長軸線と一致するのは、撞座の高さと共に時代相を示す。


池の間の刻銘。第1区、「敬白 信州佐久郡大井庄落合新善光寺 奉施入槌鐘一口/ 長四尺二寸/口二尺六寸/右志者為法界衆生往生極楽也」。第2区、「弘安二年 己 卯 八月十五日 大勧進法阿弥陀仏 勧進説法者二人生/念阿/道空/大旦那源朝臣光長 並諸旦那 大工伴長」。

駒の爪下面の刻銘 「寛元二年甲辰七月七日奉鋳移本師阿弥陀如来 同八月奉鋳 移観音勢至一光三尊三金銅建長元年已酉十月三日不断念仏始之勧進法阿弥陀仏。

松原湖伝わる龍伝説

諏方神社の歴史

むかし源頼朝がライ病にかかったとき、龍の生き肝を飲めばよいという神のおつげが夢に現れた。そこで頼朝は、畠山重忠に龍の生き肝を取って来いと命じた。重忠はどこへ行けば龍がいるかわからないので困ったが、これもまたある夜の夢に信州松原湖に住む龍の生き肝をとるがよいと教えられた。重忠はすぐに出掛けて、松原神社から弁天島へ下る大弥太坂で母に行き会った。重忠は母に頼朝の命を話すと「私が湖の中に入って、蛇体となるから肝をとって主君に奉れ」と言って入水した。たちまち水面に水柱がたったと見る間に、大蛇の姿が湖上に現れてた。重忠は今はもう躊躇する時ではないと、ついにこれを殺して生き肝を取り頼朝に差し上げた。頼朝は病気がたちまち治ったので、長湖湖畔の神光寺の境内へ重忠の母のために5重塔をたてて供養したという。また頼朝の病気が治るよう、重忠の母が松原湖の主の龍に身をささげて祈ったから頼朝の病気が治ったのだともいう。

ミニ神社巡り

スタンプ冊子200円 観光案内所にて販売しています。
松原湖ミニ神社巡りは、松原湖畔に点在する小さい神社を巡るものです。松原諏方神社上社・山宮(山の神様)・熊野権現宮(三つの神を祀る)・弁財天宮・八幡宮・子安宮(子宝の神様)・松原諏方神社下社・白山宮(歯の神様)・稲荷神社の九か所にスタンプがあります。5つ以上のスタンプを集めた方には、粗品をプレゼントいたします。スタンプ設置は5月連休から10月末まで。